根田祥一氏(異端カルト110番賛同人)が2019年11月12日にFacebook上で当サイトの記事で議論されている説教テキストの画像について「 事実確認をしました。写っているのは原稿の最初のページの参考画像であり、全体として異端と言える内容だということです。 」と発言しました。

根田氏の発言は、中橋祐貴氏がツイッター上で黒塗りにした説教テキストを表示しながら「大量ある。ダビデが自ら使用した説教台本。明らかな異端。神格化させるためのテキストです。来臨された方はイエスキリストではなく共同体のリーダー、牧師様だと書いてありますね。」 と公表したものを、当サイトが事実検証し、該当画像にはそのような記述がないことを確認したと発表した後のことでした。

この発言を受けて当サイトは、米国の2003年4月19日の復活祭修養会での説教を聞いて記録した人物を探し出し、該当の説教の全文を入手して内容を検証しました。結果、ただのローマ書1章19節から32節の内容であったことが確認され、根田氏の発言が虚偽と判明しました。

根田祥一氏の2019年11月12日の発言

読者の皆様が自分で検証できるよう、入手した説教テキストの全文の日本語訳と韓国語原文を以下に紹介します。


2003-04-19 ローマ書1章講解日本語訳

ローマ1章18節-32節講解
張ダビデ牧師
2003年4月19日(土)聖書講解1
アメリカ復活祭修養会の二日目

私は今話している言葉は韓国語です。二人(説教者と通訳者)がよくやらなければなりません。韓国はどの国かというと、世界の大きな教会を12個を選んでみると、その中に10個韓国にあります。その次に長老派のクリスチャン、私たちは長老派です。改革派教会の伝統に沿って行って、長老派の教会が世界中に1500万人おり、韓国に800万人がいます。アメリカの教会が約100年以上の改革教会の伝統を植えて一番大きい福音の実りを収穫した国だと見ることができます。ここアメリカに来て、以前の復活祭のローマ書を見ました。今回も短い時間ですが、ローマ書また見て、全部できなければ来年ももう一度しましょうか。韓国の歌の中にこのような歌があります。 「まあいいか。行こうとして行けなければ。まあいいか。休んでから行こう」そのような歌があります。 1章から8章までがローマ書では重要です。それが一つの段落になっています。1章から8章と9章から16章このように二つの部分に分けることができます。福音の核心的な教えが1章から8章の間にたくさん込められています。前回も話しましたが、ローマ書は兵器廠、武器庫と同じです。宗教改革をルターとカルヴァンから、その上に宣教の偉大な奉仕者たち、宣教師たち、彼らの霊魂が疲れたときローマ書をまた見て、ローマ書から新しい力を得て、新たに立ち上がってリバイバルの炎を起こしたことを見出すことができます。ローマ1章は前回に見たのでちょっと通り過ぎましょう。1章18節から見ます。まずこのようにいくつかに分けて見ましょう。<1章18節から2章16節>は「異邦人の罪」について話しています。 <2章17節から3章8節>は「ユダヤ人の罪」について話します。<3章9節から3章20節>は異邦人であるかユダヤ人であるかに関わらず「私たちのすべてに内在している普遍的罪」について話しています。<3章21節から3章30節>は、イエス様を信じた後に義とされる「義認」に関する説明が出てきます。<3章31節から4章22節>は「キリストに出会う前に義とされる記録」についての説明が出てきます。まず、1章18節から見ましょう。今回修養会の主題は何でしょうか。「義人は信仰によって生きる。」16節をみましょう。

ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

という言葉があります。福音とは何ですか?すべての信じる者に、救いを得させる神の力と記録しています。

ローマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

信仰というものについて、救いの問題について、私たちがローマ書を読みながら見ることになります。

1章18節から見ましょう。
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

パウロは、ローマ書を始めるとき、まず異邦人に、神を信じていない人たちの上に降る神様の怒りについて話しています。私たちは信じていない人に会うとき、なぜ私たちが救いを受けるべきか。それを信じる者は何の話をしますか。それは私たちが罪人であるから。信じない人は、このように話しています。「なぜ我々が罪人なのか。」西洋の宣教師が東洋に行った時、東洋で宣教をしたときに最初にぶつかる問題がまさにこの問題です。この問題にぶつかります。キリスト教は、人間をなぜ罪人と見るのか。とても人間に対して否定的なアプローチをするということです。この面をまず聞いてきます。なぜ人間は罪人でしょうか。なぜなら救いとは、罪の中に陥っている者が救われることですから、私たちが罪人であることが明確にならなければ、救いについてのメッセージが力を失うことにはなりませんか。そうです。しかし、人間はなぜ罪人なのか。これを尋ねて来るということです。とてもこの問題について困ってしまいます。多くの宣教師らが東洋に行って伝道するとき「なぜ私が罪人なのですか」と言いながら、罪人であることを否定するということです。イエス様がこのようなことをおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と。彼らに救いのメッセージを伝えることができません。しかし、パウロは、このような質問をする人たちに、まず話しているのです。おそらく、ローマには、あまりにも多くこのような人々がいたようです。ローマは、あなたがよく知っているように、このローマ書が書かれるようになったのは名前も記録されてない人たちが伝道したのでしょう。アンテオケ教会がそのような教会でした。無名のクリスチャンたちが伝道をしました。イエス様の時代にはローマとアンテオケとアレクサンドリアという大きな都市がありました。ところが、ローマとアンティオキアは本当に名前のない人々を通して伝道がなされたところです。誰が伝道したのかわかりません。アンテオケの教会も、ローマも誰が伝道したのかわかりません。しかし、福音がそこまで広がって外に出て、大きな影響力をこのように行使するようになりました。多くの人が信じています。ところが、彼らが向き合った多くの人々が未信者でした。彼らは罪について無感覚な状態にあったということです。それをあまりにもよく知っていたパウロだったため、異邦人の罪について、まずパウロは手紙を始めたのです。神様の怒りというものを私達が見ます。

1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

19節をじっとみましょう。異邦人たちはイエスを知りません。しかし、彼らは本当に神様を知ることができない者であったのか。パウロは、まずイエスの話をしていません。パウロは何を先に話しますか。神様の前に立っている人間の話をします。創造主である神様の前に立っている人間の話をします。私たち人間に神を知ることを私達に見せてくださったということです。私たちは、この言葉でどのようなことを考えるようになりますか。すでに私たちの中に与えられたものは何でしょうか。神様を知ることを既に私たちに許されたということです。神様がこれを私達に見せてくださったということです。これは何でしょうか。パウロはこれをまず黙想することを願っています。神様を知ることができるようなもの、神様が見せてくださったそれは何でしょうか。

1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

宇宙を見よということです。「世の初めから」皆さんペトロ使徒(2ペテロ3:4)神様の裁きをあざける者ども、嘲笑者たち、このように創造の世界というのは、まだこのようにありますが、相変わらず宇宙の秩序これがこのようにまわって運行し、まだ昨日昇った太陽が今日も再び昇り、変化なく宇宙が回ることを見よということです。この中のどこに神様の裁きがあるというのか。ところが、今日の本文をよく見ましょう。
「世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって」
宇宙は何ですか。ギリシャ語をみると、Cosmosという言葉です。これは秩序という言葉です。とても精巧な秩序です。私たちがこの講壇を見ましょう。ここに演壇があり、少し高いでしょう。そしてホールがあります。窓もあります。天井もあります。このすべてがただこのようにできたものではないでしょう。これらがすべて存在している存在の理由があります。存在の理由があるということです。ところで、この存在の理由は何でしょうか。このようにできたもの。このように建てられたもの。これがとても秩序整然としています。すべて理由があります。とても小さな建築物一つを見ても、誰もこれを偶然にできたと言わないということです。建築者がいて、建築者がこれを建てるべき理由があり、建築者がこれを精巧な設計図にしたがって正確に建てたため、この建築物ができたということです。私たちの時計を見ましょう。宇宙は時計と同じだという言葉があります。とても精巧です。ところが、これが偶然に組み合わせされたものではないのは誰でもとてもよく知っています。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって」
見せてくださった世界、宇宙を見よということです。これを創られた方がいらっしゃるのでは。これを私たちが言い訳することができないのではないでしょうか。私たちに何を与えてくださいましたか。パウロは、まず、人間が罪人であるが人間が堕落をしたが、しかし、私たち人間に与えられた神様の貴重な、破壊されていない、残されている神様の贈り物、神様から与えられた独特の人間だけが享受する特権、それを覚えてほしいのです。それが何でしょうか。理性です。考えることです。人間はどのような存在なのかについてギリシャの人々はどうでしょうか。人間と他の動物が区別される点がただ一つあると言います。それは理性的存在です。ロダンの彫刻の中に、このようなものがあります。ロダンの「考える人」があります。これは本当に有名な彫刻です。これは何でしょうか。指を鼻に当てることでもなく、もしそれだけなら何の意味もありません。頭に当てました。後頭部に当てたのではなく、頭に当てたのです。指を頭に当てて座っているのです。とてもこの彫刻が与える言葉があります。知識があるということです。それを説明しようとする言葉があるということです。これは何でしょうか。人間は動物とは違って、「考える存在」ということです。考えてみてください。ペットの犬が突然かわいいことをしていたのに、いきなり犬が考える振りをするというようなことはあり得ないではありませんか。これは非常に重要なことですが、人間は考えている存在というのです。人間に与えられたこの理性、人間は堕落したが人間は罪人であるが、私たちの中に何が残されているのか。これは「神様のかたち」は、伝統的な面で、神様と似ていると言うが、何が似ているのでしょうか。最も重要なのは愛です。愛が似ています。私たちが創世記を勉強するときに、とてもたくさん見ました。ところが、その愛を失ってしまい、私たちの中に何が神に似たものがありますか。神様がくださった貴重な特権、人間だけ味わっているものがあります。これが理性と自由意志です。この道徳的な感覚があるということです。パウロは後で話しますが良心があるということです。これが生きて動くので、これは問題です。これは問題となります。これは人間がhomo religiosus(宗教的存在)であるということです。人間が墓を作り、壁画の墓が出てきます。死を考えて。礼拝をするようになり。人間が動物と異なるその何が私達人間の中にあるのでしょうか。パウロは、堕落した人間(の問題について)この点を掴んで入っていこうと話しているのです。ロダンの「考える人」の彫刻は何も言いませんが、言っているかのように。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時から」
これはどこにあるのでしょうか
「被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって」
私たちがこれを見るときに、言いしれない知識を得るようになります。詩篇19篇を一度みましょう。

詩篇19:1 <指揮者のために。ダビデの賛歌>天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。

この詩篇の記者の詩をご覧ください。創造の世界を見るときに、神様の知識を語って、このように言うということです。話もなく、ことばもなく、太陽と月と木と水とは、この地球のすべてのものが、詩篇の記者は、知識を伝え、示すということです。どんなことを語っていますか。神様の創造の知恵は無限であり、深く、また、深いものであり奥深く、神秘的だ、と。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

存在の証明というものがあります。私たちの教会に来たら「神様を知ることができる道」に関して勉強します。ローマ1章20節は誰もが客観的に理解することができ、主観的なものではなく、客観的な認識です。客観的に構築された世界を見てください。あなたがたがどうしてこの世界を創った方がいないと否定することができるでしょうか。(あ、あまりにも話が多くて。この話をすべてしてみるとローマ書を勉強できません。また、1章もできずに帰ることになってしまいます。)Theismというものがあります。理神論というものがありますが、神様がこの世界を創造したが、創造までは否定することができず、弁明の余地はないということです。しかしながら創造はしておいて、この世界に干渉しておられないということです。autonomy(自律性)は与える。全く干渉せずに。このような理論についての反発がカルヴァンの「神の摂理」(providence)です。これを多くの場所で説明しました。神様は創造しただけでなく、この世界を保全し、また保全するだけでなく、この世界を支えるということです。もう一度読みましょう。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

神様はいないと弁解することはできないというのがパウロの信じない異邦の人々に投げかける最も重要な言葉です。このように、小さな時計も、小さな建物も皆これを作った人がいるのに、まして大きな宇宙においては。皆さん 「亀の理論」を知っていますか。亀が海から出て来てこれくらいの亀が、海岸に来て砂を掘ります。自分の前足二本で掘るということです。そこに亀の卵を生み出します。そして土で覆います。そして海に行きます。「未来の私の子供たちよ、元気でね」と行きます。その後、これらが暖かい海岸の砂の中で目を覚ますとそこから出てきます。皆が出てきます。出ると「ああ、新しい世界だ」とでも言うようです。ところが、不思議なことがあると言います。海岸このようにあるとして、海岸は木があり、涼しく、そしてこちらの方が海です。ところが、一匹も山に這って行きません。皆、海に向かって行きます。出て来た子亀全てが、海に這って行きます。ディスカバリーチャンネルがあるでしょう。神秘的だということです。どのようにあのように一匹も森に行かないのだろうかと話します。commenter(解説者)が「その子亀の中に海に向かうことができるような知識を入れてくれた者は誰か」と話します。私たちは力強く答えることができます。創造主です。神様です。神様が、全てそれを詰め込んで、一つ一つの種も見ればすべての設計があります。私たちが呼吸をする時もそうです。私たちは、二酸化炭素を出して酸素を取り込みます。しかし、木は逆です。このような調和の基礎を誰が造られましたか?パスカルの賭けという「決定理論」というのがあります。私たちの人生を賭けるということです。「神がおられる。だから、私たちは善良に生きるべきだ。」しかし、もし神様がいないのなら「いらっしゃらなかったとしても、彼は善良に生きたので、彼にとっては良かったのではないか」しかし、もしいらっしゃったら、神様を知らず人生を生きることは、そのような人生は大きな失敗する、ひどく狼狽することになるのではないか。このようにしても良いし、そのようにしても良い。これをなぜ信じないのでしょうか。そうです。創造の世界を見れば、私たちが神様に弁解の余地はありません。それぞれのすべてのことが全部奥深い秩序があります。言葉で説明することのできない知識が、その中にあります。今日の時代はどうでしょうか。東方の博士が、聖書を見るその時代の聖書学者たちよりも、キリストの到来をより先に知りました。今日、アメリカの立場はどうですか。あまりに多くの科学者の中で、さらに信仰が深い人が、真摯な人たちが多いです。医師らの中で神様を信じている人が多いです。なぜでしょうか。特に多いのです。医師がどんな人達かというと創造物の中の創造物、被造物の中の被造物である人間の構造を研究する人たちです。構造を勉強してみるととても調和しているということです。この秩序と調和を創っておいた神様に当然、その前に立つとき感謝して畏敬の念、畏れと尊敬の心を持つことが当たり前ではないでしょうか。そうです。その目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性はどこにあるのでしょうか。目に見えない神様(の本性)が見える万物にすべてあります。私が教えた人の一人に美術学院の先生がいました。子供たちが朝に来るでしょう。絵を描かせます。秋にコスモスを描かせます。だから家でどのように住んでるかということも知ることができると言います。ああ、あの子は姉と喧嘩したんだな。あの子はお母さんに怒られた。あの子は今日、家でおいしいものを食べてきたんだな。褒められたんだな。全て絵の中に現れるそうです。今日の世界を見ましょう。創造とは何ですか。内的なものを表現したものです。今日の世界では、創られた世界のすべてのものを見るとき、

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ」

だからこれを見ると、神が存在しないと弁解する余地がないということです。皆さん、この時計がCosmosです。これは一つの例えです。これが偶然にできたと思う人は誰もいません。これと比較することができない精巧さと具体的であり、言い表せないほど深遠な世界が語るということです。これが偶然にできたのだろうか。これを弁解することができないということです。ところが、あなたたちはどうなのでしょうか。

ちょっと前に客観的な世界について話しました。神様がおられることを論理的推理を通して知ります。しかし、私達はどうなのかというと、主観的な道があります。それが何でしょうか。直感(intuition)です。私が水に落ちた人を救ったことがあります。ところが実際に水に落ちた人が生き残ると、人生がとても真摯になります。ある人々は、このような人がいます。水に溺れて。梅雨になって、水に落ちてその人は流されました。ところがどうなのかというと水に浮かんだり沈んだりしたそうです。そしてまた沈むのでしょうか。なぜ沈んでまた浮かんでいるのかというと呼吸をしようとして。すっぽり沈んで浮かんで息をします。そのようにまた沈めば死んでしまいます。ところが、この人を誰かが救い出して、この人が(水から)出て、何を話したのかというと、水に溺れて沈んだり浮いたりしながら、これは本当に重要なことです。生きないといけないということしか考えなかったそうです。ところがどうなのかというと、(水から)出てきたとき、「おお、神様」、全く神様を信じていないのに、「おお、神様、私を生かしてくださるなら」しかし、また、どうなのかというと沈むときに自分の人生のすべてのものがフィルムのようにすべて見えるということです。ところが、全部何だけが見えるのかというと過ちだけ全て見えたそうです。また沈んで浮いて自分が後悔したそうです。「ああ。本当に間違っていました。私は罪人です。私を生かしてくれるなら」だから、自分がその中で自分の人生のすべてを経験して。これはとても神秘的な体験です。全て悔い改めて救いを受けたのです。初代教父にテルトゥリアヌスという人がいました。その人は何したのかというと、「魂は生まれながらにしてキリスト教徒である」と言いました。ところが、この言葉が非常に難しい言葉でした。生まれた時からどうしてクリスチャンですか。その人の思想をずっと勉強すると彼の主張の核心は何でしょうか。私たち人間の霊は、どんな世界や、どんな宗教を、どんな理論を持っていても、どの立場にいるとしても、私たち人間の霊は神様に向かっているということです。詩篇の記者は

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

私たちの霊は、いつも太陽とひまわりの関係と同じです。私たちの霊は、いつも切っても切れない神様と人間の関係性。父と息子の関係。イエスの中にある卓越した例え。神様と私。これは父と息子の関係。父と息子の関係は何でしょうか。父という言葉の中に息子がいるのであり、息子という言葉の中に父があるのです。父を考えていない息子という言葉には意味がありません。父という言葉の中には、すでに息子を呼んでいるのであり、父を要請しているのです。私たちの霊は、すでに神に向かっているというのです。パウロは何を話そうとするのでしょうか。私たちが神様を拒否するのは、神様を無視するのは、それは自分を欺くことです。霊の真の要求、これを無視することだというのです。アウグスティヌスは、若いとき本当に放蕩して生きていました。彼の告白録という本を見ると、「神様は、すでに私の中でおられたのに、私が外で神様を探した。私が神様の中に安息をする前は、私の霊には、真の安息がないのだ。」神様と人間の関係がそうです。これは、真の霊の告白です。神様と人間の間の切っても切れない関係です。ところがしきりに離れようとしているということです。したがって、何が起こりますか。霊魂の不安が生じます。私たちが神様を失ってしまうと、私たちの中に見つかるものは何でしょうか。不安です。神様を拒否するとき訪れるものは何でしょうか。孤独です。これは世界のどんなものに変えてみようと、満たそうとしても満たされないものです。この場は満たされないのです。したがって、人間は、「生まれながらにキリスト者」なのです。生まれた時から、神様を呼び求めているのです。神様に向かっているのです。ひまわりが太陽に向かっているという意味の言葉です。そうです。主観的に見てもそうですし、客観的な被造世界を見てもそうです。私たちは何かに覆われています。私たちの霊魂が太陽との間に雲が立ち込めたように覆われています。私たちの霊魂が何かに惑わされているということです。「悪霊に憑かれる」という言葉があります。私たちは、我に返ってみると、山上の垂訓でイエス様がこのような言葉を言われました。本当に美しい言葉です。

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」

ああ。これはとても美しい言葉です。あまりにも美しい言葉です。心が清ければ、あなたがたは、神様を見るということです。私たちは、誰もが神様を見ることができる能力を持っているということです。その霊の中に神様を見ることができる目があります。神様に向かっており、神様を探し求めているということです。しかし、私たちの心が清くなく、覆われ、惑わされているため、ですから、私たちが神様を忘れて生きるのです。しかし、忘れようとしても忘れることができないことです。これが神様と人間との間の関係です。切っても切れないものであり、忘れたくても忘れられないものです。これが神様と人間との関係ではありませんか。では、しかし、21節でパウロは言います。それにもかかわらず、
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
「神様を知るとき」知っています。知っているのです。私たち人間は知っています。犯罪心理学をする人たちは、どのように犯人を捕まえるかというと、どこかで殺人をしたり、泥棒がいたりするとしたら、どこに小便や大便をしたかを探すそうです。なぜなら、罪を犯すとき誰もがどんな泥棒もどんな殺人者もすべて恐れを感じ、それが正しくないことを知っています。正しくないということを知って、その罪を犯しているということです。韓国で私が10代のときに、とても有名な殺人犯が一人いました。何人かを殺しながら逃亡しました。全国でその犯人を逮捕しようと騒ぎになりました。ところが、その犯人が捕まりました。逮捕されて第一声で何を言ったかというと、「ふ〜、私は生きた。」これが新聞で大きく出ました。「殺人者が生きたなんて」そうです。これが人間です。罪を犯してもしかたなく犯すのであり、罪を犯しても罪を犯してはならないことを知りながら罪を犯すということです。したがって、私達は罪人です。なので、あなたがたの中に、このようなことがあるのを否定することができるでしょうか。良心の呵責というものがあるということです。良心の保護膜というものがあるのです。したがって、良心に逆らって生きている自分ではないのでしょうか。誰もそれを否定することができる人はいないでしょう。だからパウロは話しています。だからあなたがたは罪人ではないか。あなたがたの中に罪があるのではないか。神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もしないのです。私たちは、当然、造られた存在です。詩篇にこんな歌があります。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」詩篇8:9

これが詩篇です。詩篇の記者があまりにも美しいと証しをするのです。

詩篇8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
詩篇8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

私たちが何者なのでこの美しい世界をくださって。私たちの中に何がありますか。創造についての神様の栄光を賛美し、それに対する感謝がなければいけないのに。アダムとノアは何が違いますか。アダムの中でこれを失ったのです。ノアになぜ箱舟を造るように話されたのでしょうか。
しかし、なぜノアを避難させずに箱舟を造るようにおっしゃったのでしょうか。ノアが箱舟を作りながら、この創造の神様の苦労と深淵さをもう一度見出しなさいということではなかったのでしょうか。

1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
詩篇14:1 指揮者のために。ダビデによる>愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

と書いてあります。神様がいないという者は愚かだということです。(心が)暗くなったということです。

1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

そうです。神様が消え、その場を偶像に置き換えたというのです。宇宙の中心は人間でしょう。人間の中心が神様なのに、これを失ったことを通して、人間がこれを否定することによって、これを拒否して反逆することによって、真に愚鈍になり愚かになって、心が暗くなったのです。神様の代わりに偶像に仕えるようになったということです。したがって、どのような現象が現れるようになったのでしょうか。

1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

神様を失った人たちを、パウロは「引き渡され」と言いました。彼らがそのようにするのだから、どうすることができましょう。皆さんがこの世界を深く知る必要があります。今、パウロが話している怒りが初めてローマ書を読む人にとってはとても抵抗感があります。誰かがそう言っています。なぜ最初に会ってすぐに怒るのですか。神様はなぜ怒りながらそういうことを言うのでしょうか。私が幼い時、これを読んだときに、神様、なぜ最初から怒っているのでしょうか。と思いました。ところが、信仰を知って深くなってみると、愛が大きいほど、それを拒否したとき、本当に切実な愛があったということです。この怒りは人間の反逆の結果です。神様の切実な愛、言い表せない、私たちにくださった恵みがあります。知ってみれば創造のすべてのもの、私たちの中にあるすべてのものは、私たちが呼吸するのも全て恵みです。ところが、皆さんどうでしょうか。かならず病気になった後、欠乏を経験した後、空気が汚染され、水が汚れたら、その時分かるようになるということです。「ああ、これが感謝すべきことだったのだ。愛が私たちに与えられた恵みだったのか。私たちに与えられた愛だったのだ」と。しかし、なぜ最初からお怒りになるのか。最初から怒っているのですか。ところが、パウロのこの言葉を代わりに書きました。パウロは、熱い人です。後ろを見れば代わりに書いた代筆者がいます。立ち上がって話したでしょう。じっと座って考えて書いたものではないはずです。「この殺す者たち!」パウロの中に何があるのでしょうか。この驚くべき神様の愛を知った者たちの中に、「これをあなたがたが拒否しながら、罰を受けても当然の者たちだ」と、代筆者が書いたのです。そして後ろに出てくるではありませんか。「あなたの名前も一回、誰が書いたのか書いておきなさい。」そのようにして机の上に登って「この悪い人たち」と。1章は、一言で言うとDarkness(闇)です。人間がどれほど腐敗したのか。人間がどれほど罪人であるかを示している。怒り、「何でか、怒りだって?」「私が怒ると?」「なぜ怒りについて話すのか」「何?、怒りだって?」パウロがこう言います。「何?怒りだって?」そうだったということでしょう。知ってみると。十戒にこのようなことがあります。「主であるわたしは、ねたむ神」と。何?、聖書の神様が嫉妬をするんですか?この神は少し変な神ではありませんか?それを知ってみると、とても素敵な神だということです。「愛の神」であるということです。皆さん、誰か本当に愛する人がいるとしましょう。

韓国の歌の中で、このような歌があります。「嫉妬」という歌があります。皆さんよく知っているんです。嫉妬という歌ですよね。一度、歌ってみてくださいと言ったら歌っていました。「私だけ見つめて。なぜ他の人を見ているの。」嫉妬される神様であられること、適当なものでしょうか。私たちを愛しておられるのではありませんか。愛の神様がいらっしゃるということが、私たちを愛しておられ、私たちに恵みをくださってこの世界を創られ。これが私たちの慰めとなって、これが私たちの力になるのではないでしょうか。パウロは話します。しかし、彼らが神様を拒否して、神様を離れて自ら愚かになって愛すれば愛するほど、より遠く離れるということです。どうしてでしょうか。神様がどうされるというのでしょうか。引き渡されるということです。ああ、神様が引き渡されるということ。「引き渡されるなんて!」これは深い事情があるということです。愛すれば愛するほど、より遠ざかるということです。これが罪人の姿であることをパウロは今告発しているのです。したがって、神様は私達をどのようにされるのか。
「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」ローマ1:24
神様を失った者は、欲望に導かれ欲望の奴隷になります。

ユダ1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。
ユダ1:7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

私たちが誰でしょうか。人間の中心に神様が消えるとき、激しい無秩序、相対主義、その何も真理についての確信がなく、審判の恐怖を知らない者たち、審判の恐れがみな消えました。公儀のすべてを失ってしまいました。すべての正しいことと間違ったことについての判断の基準をすべて喪失してしまった姿であるということです。その中心の神様の座を偶像に取り替えたことです。したがって、極めて酷い混沌が生じ、彼らは欲望に溺れて腐敗していくことです。彼らをそのようにするよう、放っておくしかないのです。

1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

今日のアメリカを見てください。今日のアメリカのようなローマの人々に向けたパウロの言葉と一つも違っていません。彼らが神様を捨てたとき、言い表せないほどの性的堕落とこの無秩序と、このような腐敗と。今パウロは同性愛を語っています。この境地に行き着いたことについて、これを欠かさずに指摘しています。ローマがそうでした。あまりにも多くの非嫡出子がいました。朝起きるとローマには多くの奴隷がいました。あまりにも多くの私生児が朝に出ました。誰親なのかわからない、これらは、このような捨てられた子供たちがあまりにも朝になると多く出ました。あちこち路上で。あまりにも多くの同性愛者がいました。その中に福音が入りました。伝える時、 「私は福音を恥とは思いません。」帝国の巨大な世界を見て、彼らは時には絶望したものであり、時には自分が生きていく道、一人で行く道に孤独を感じることもあったでしょう。しかし、パウロは述べています。
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
ローマに向けたパウロの一言重要な言葉は何でしょうか。救いを受けなければならないということです。パウロは、自己啓発の話をしてはいません。パウロは救いの話をしました。彼らが救わなければならないということです。彼らが救われる必要があるということです。彼らが徹底的に腐敗したということです。

1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

<祈り>
恵み深い父よ。今日、私たちの中にある罪。これが神様を失った結果であることを使徒の告発を通して私達が知りました。今日、この時間本当に神様の怒りの下にある罪人の姿、これは私たちの姿であることを。神様の怒り、神様のこの怒り。この一言を忘れずに生きる私たちになりますように。おお、父なる神様。罪の世界の中で生きる罪人の姿。この姿が、私たちの姿です。この罪の姿。そのように神様の怒りの下にある姿。この使徒の告発を、私たちは再び謙虚な心でこの言葉を聞く耳を許してください、本当に暗くなった心、愚かな心、神様を心に置くことを嫌う心、こんな罪人の姿、この暗、これが今日のこの時代の姿であることを私達は知り、本当にこの時代が救いを渇望する時代であることを私達は知って行く者となることを願います。本当にこの言葉が私たちの中に命となり、言葉が私たちの中に闇の世界を照らす光になることを願います。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


韓国語原文

로마서1장 18절-32절강해

장다윗목사님.
2003년 4월19일(토) 성경강해1
미국 부활절 수련회 둘째날

제가 지금 하는 말은 한국말입니다. 둘(설교자와 통역자)이 잘 해야겠습니다. 한국은 어떤 나라냐면 세계의 큰 교회를 12개를 뽑아보면, 그 중에 10개가 한국에 있습니다. 그 다음에 장로교인들이 우리가 지금 장로교입니다. 개혁교회의 전통을 따라가는데, 장로교가 전세계에 1500만명이 있는데, 한국에 800만명이 있습니다. 미국의 교회가 약 100년이상 개혁교회의 전통을 심어서 가장 큰 복음의 결실을 거둔 나라라고 볼 수 있습니다. 여기 미국에 와서 지난 부활절때 로마서를 봤습니다. 이번에도 짧은 시간이지만 로마서를 다시 보고, 다 못하면 또 내년에 또 한번 더 할까요? 한국 노래 중에 이런 노래가 있습니다. “에라 가다 못가면 에라 쉬었다 가자.” 그런 노래 있습니다. 1장부터 8장까지가 로마서에서 중요합니다. 그것이 한 단락으로 되어 있습니다. 1장-8장과 9장-16장 이렇게 두 부분으로 나눌 수 있습니다. 복음의 핵심적인 가르침이 1장부터 8장사이에 많이 담겨져 있습니다. 지난번에도 얘기했지만 로마서는 병기창, 무기의 창고와 같습니다. 종교개혁을 루터와 칼뱅에서부터 그 위에 선교의 위대한 사역자들 선교사들이, 그들의 영혼이 지칠 때 로마서를 다시 보고, 로마서로부터 새로운 힘을 얻고 새롭게 일어나서 부흥의 불길을 일으켰던 것을 찾아볼 수 있습니다. 로마서 1장은 지난번에 봤으니 좀 지나갑시다. 1장 18절에서부터 보겠습니다. 우선 이렇게 좀 나눠 봅시다. <1장18절-2장16절>은 “이방인의 죄”를 이야기합니다. <2장17절-3장8절>은 “유대인의 죄”에 대해서 얘기합니다. <3장9절-3장20절>은 이방인이나 유대인이나 할 것 없이 “우리 모두에게 내재해 있는 보편적 죄”에 대해서 얘기합니다. <3장21절-3장30절>은 예수님을 믿은 이후에 의롭다함을 받는 “칭의”에 관한 설명이 나옵니다. <3장31절-4장22절>은 “그리스도를 만나기 이전에 의롭다 함을 받는 기록”에 대해서 설명이 나옵니다. 먼저 1장 18절부터 보겠습니다. 이번 수련회의 주제가 무엇입니까? “의인은 믿음으로 말미암아 살리라.” 16절을 봅시다. 롬1:16 내가 복음을 부끄러워하지 아니하노니 이 복음은 모든 믿는 자에게 구원을 주시는 하나님의 능력이 됨이라 구원이라는 말이 나왔습니다. 복음이란 무엇입니까? 모든 믿는 자에게 구원을 주시는 하나님의 능력이라고 기록하고 있습니다. 롬1:17 복음에는 하나님의 의가 나타나서 믿음으로 믿음에 이르게 하나니 기록된 바 오직 의인은 믿음으로 말미암아 살리라 함과 같으니라. 믿음이라는 것에 관하여, 구원의 문제에 관하여, 우리가 로마서를 보면서 보게 될 것입니다.

1장18절부터 보겠습니다.
1:18 하나님의 진노가 불의로 진리를 막는 사람들의 모든 경건치 않음과 불의에 대하여 하늘로 좇아 나타나나니
1:19 이는 하나님을 알 만한 것이 저희 속에 보임이라 하나님께서 이를 저희에게 보이셨느니라.

바울은 로마서를 시작할 때, 먼저 이방인들, 하나님을 믿지 않는 자들위에 내리는 하나님의 진노에 관하여 얘기하고 있습니다. 우리는 믿지 않는 사람들을 만날 때, 왜 우리가 구원을 받아야 하는가? 그것을 믿는 자들은 뭐라고 얘기를 합니까? 그것은 우리가 죄인이기 때문에. 믿지 않는 자들은 그렇게 얘기합니다. “왜 우리가 죄인인가?” 서양의 선교사들이 동양에 갔을 때, 동양에서 선교를 할 때 제일 먼저 부딪히는 문제가 바로 이 문제입니다. 이 문제에 부딪힙니다. 기독교는 인간을 왜 죄인으로 보는가? 매우 인간에 대해서 부정적인 접근을 한다는 것입니다. 이 면을 먼저 물어옵니다. 왜 인간이 죄인입니까? 왜냐면 구원이라는 것은 죄 가운데 빠져있는 자가 구원을 받는 것니까, 우리가 죄인이라는 것이 분명해지지 않으면 구원에 대한 메세지가 힘을 잃게 되는 것이 아닙니까? 그렇습니다. 그런데 인간이 왜 죄인이냐? 이것을 물어온다는 것입니다. 굉장히 이 문제에 대해서 난처해집니다. 많은 선교사들이 동양에 가서 전도할 때 “왜 내가 죄인입니까?”라고 하면서 죄인임을 부정한다는 것입니다. 예수님이 이런 말씀을 하셨습니다. “건강한 자에게는 의원이 쓸 데 없다.” 그들에겐 구원의 메시지를 전할 수 없습니다. 그러나 바울은 이런 질문을 하는 이들에게 먼저 얘기를 하는 겁니다. 아마도 로마에는 너무도 많은 이런 사람들이 있었던 것 같습니다. 로마는 여러분이 잘 알다시피, 이 로마서가 쓰여지게 된 것은 이름이 없는 사람들이 전도한거죠. 안디옥 교회가 그런 교회였습니다. 무명의 크리스챤들이 전도를 했습니다. 예수님 시대 때 로마와 안디옥과 알렉산드리아라는 큰 도시들이 있었습니다. 그런데 로마와 안디옥은 정말 이름없는 사람들로 말미암아 전도가 된 곳입니다. 누가 전도했는지 모릅니다. 안디옥의 교회도, 로마도 누가 전도했는지 모릅니다. 그러나 복음이 거기까지 퍼져 나가서 큰 영향력을 이렇게 행사하게 되었습니다. 많은 사람들이 믿게 되었습니다. 그런데 그들이 마주하고 있는 많은 사람들이 불신자였다는 것입니다. 그들이 죄에 관하여 무감각한 상태에 있다는 것입니다. 그것을 너무나 잘 알고 있었던 바울이었기 때문에, 이방인의 죄에 관하여 먼저 바울은 편지를 시작하는 것입니다. 하나님의 진노라는 것을 우리가 보겠습니다.

1:18 하나님의 진노가 불의로 진리를 막는 사람들의 모든 경건치 않음과 불의에 대하여 하늘로 좇아 나타나나니
1:19 이는 하나님을 알 만한 것이 저희 속에 보임이라 하나님께서 이를 저희에게 보이셨느니라

19절을 가만히 봅시다. 이방인들이 예수를 모릅니다. 그러나 그들이 정말로 하나님을 알 수 없는 자들이었는가? 바울은 먼저 예수를 얘기하지 않습니다. 바울은 무엇을 먼저 얘기합니까? 하나님 앞에 서 있는 인간을 얘기합니다. 창조주 하나님 앞에 서 있는 인간을 얘기합니다. 우리 인간에게 하나님을 알만한 것을 저희에게 보여주셨다는 것입니다. 우리는 이 말씀에서 어떤 것을 생각하게 됩니까? 이미 우리 가운데 주신 것이 무엇입니까? 하나님을 알만한 것을 이미 우리에게 허락하셨다는 것입니다. 하나님께서 이를 저희에게 보이셨다는 것입니다. 이것이 무엇입니까? 바울은 이것을 먼저 묵상하길 바라는 것입니다. 하나님을 알만한 것과, 하나님께서 보이셨던 그것은 무엇입니까?

1:20 창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니 그러므로 저희가 핑계치 못할지니라
우주를 보라는 것입니다. “창세로부터” 여러분들 베드로 사도(벧후3:4)가 하나님의 심판을 기롱하는 자, 비웃는 자들, 이렇게 창조의 세계라는 것은 여전히 이렇게 있는데, 변함없이 우주의 질서 이것이 이렇게 돌아가면서 운행하면서 여전히 어제 떴던 해가 오늘도 다시 뜨고 변함 없이 우주가 돌아가는 것을 보라는 것입니다. 이 중에 어디 하나님의 심판이 있겠는가? 그런데 오늘 본문을 잘 봅시다. “창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니” 우주는 뭡니까? 헬라어로보면 Cosmos라는 말입니다. 이는 질서라는 말입니다. 너무너무 정교한 질서입니다. 우리가 이 강단을 봅시다. 여기 연단이 있고 조금 높죠. 그리고 홀이 있습니다. 창문도 있습니다. 천장도 있습니다. 이 모든 것들이 그냥 이렇게 되어진 것이 아니잖아요. 이것들이 다 존재하는 존재의 이유가 있습니다. 존재의 이유가 있다는 것입니다. 그런데 이 존재의 이유가 무엇일까요? 이렇게 되어졌던 것. 이렇게 지어졌던 것. 이게 굉장히 질서정연하게 되어 있습니다. 다 이유가 있습니다. 아주 작은 건축물 하나를 보고도, 그 누구도 이것을 우연히 되어졌다고 하지 않는다는 것입니다. 건축자가 있고 건축자가 이것을 지어야 하는 이유가 있었으며 건축자가 이것을 정교한 설계도에 따라서 정확하게 지었기 때문에 이 건축물이 나타나게 되었다는 것입니다. 우리 시계를 봅시다. 우주는 시계와 같다고 했습니다. 매우 정교합니다. 그런데 이것이 우연히 조합되어져서 맞춰져서 나타나지 않았다는 것을 누구나 너무 잘 알고 있습니다. “창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니” 보여진 세계. 우주를 보라는 것입니다. 이것을 지으신 이가 있는 것이 아닌가? 이것을 우리가 핑계할 수 없는 것이 아닌가? 우리에게 무엇을 주셨습니까? 바울은 먼저 인간이 죄인이지만 인간이 타락을 했지만 그러나 우리 인간에게 주셨던 하나님의 소중한, 파괴되지 않은, 남아져 있는 하나님의 선물, 하나님께서 주신 독특한 인간만이 누리는 특권, 그것을 기억하기 원하는 것입니다. 그것은 무엇입니까? 이성입니다. 생각하는 것입니다. 인간은 어떤 존재인가에 대해서 헬라 사람들은 어땠습니까? 인간은 다른 동물과 구별되는 딱 한가지가 있다고 합니다. 그것은 이성적 존재입니다. 로뎅의 조각 중에서 이런 것이 있습니다. 로뎅의 “생각하는 사람”이 있습니다. 그것은 정말 유명한 조각품입니다. 이것이 무엇입니까? 손가락을 코에 대는 것도 아니고 그랬다면 아무 의미가 없을 것입니다. 머리에 두었습니다. 뒤통수에 댄 것도 아니고 머리에 댄 것입니다. 손가락을 머리에 대고 앉아있는 것입니다. 매우 이 조각이 주는 언어가 있습니다. 지식이 있다는 것입니다. 그것이 설명해주고자 하는 말이 있단 말입니다. 이는 무엇입니까? 인간은 동물과는 달리 “생각하는 존재”라는 것입니다. 생각해 보세요. 애완견이 갑자기 귀여움을 떨다가, 갑자기 애완견이 생각하는 손짓을 한다면, 이것은 생각할 수도 없는 것이 아닙니까? 이는 매우 중요한 것인데, 인간은 생각하는 존재라는 겁니다. 인간에게 주신 이 이성, 인간이 타락했지만 인간이 죄인이지만 우리 가운데 무엇이 남아져 있는가? 이는 “하나님의 형상”은 전통적인 면에서 하나님과 닮은 것이 무엇을 닮았습니까? 가장 중요한 것은 사랑입니다. 사랑을 닮은 것입니다. 우리 창세기 공부할 때 굉장히 많이 봤습니다. 그런데 그 사랑을 잃어버렸어도, 우리 가운데 무엇이 하나님을 닮은 것이 있습니까? 하나님이 주신 귀한 특권, 인간만 누리고 있는 것이 있습니다. 이것이 바로 이성과 자유의지입니다. 이 도덕적인 감각이 있다는 것입니다. 바울은 뒤에 얘기하지만, 양심이 있다는 겁니다. 이것이 살아 움직이기 때문에 이것이 문제입니다. 이것이 문제라는 것입니다. 이것이 인간이 Homo religious(종교적 존재)라는 것입니다. 인간이 무덤을 만들고, 벽화에 무덤이 나옵니다. 벽에다가 죽음을 생각하고 예배가 나오고, 인간이 동물과 다른 그 무엇이 우리 인간 안에 있는 것입니까? 바울은 타락한 인간의 이것을 붙들고 들어가는 것입니다. 로뎅의 “생각하는 사람” 이 조각이 아무 말을 안하지만 말을 하는 것과 같이. “창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이” 이것이 어디에 있느냐? “그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니” 우리가 이것을 볼 때, 말할 수 없는 지식을 얻게 됩니다. 시편19편을 한번 보겠습니다. “시편19:1 하늘이 하나님의 영광을 선포하고 궁창이 그 손으로 하신 일을 나타내는도다. 19:2 날은 날에게 말하고 밤은 밤에게 지식을 전하니 19:3 언어가 없고 들리는 소리도 없으나 19:4 그 소리가 온 땅에 통하고 그 말씀이 세계 끝까지 이르도다” 이 시편의 기자의 시를 보십시오. 창조의 세계를 볼 때 하나님의 지식을 말하고, 이렇게 말을 한다는 것입니다. 말할 수 없는 것이, 해와 달과 나무와 물과 이 지구의 모든 것들이 시편의 기자는 지식을 전하고 말을 한다는 것입니다. 어떤 말을 하고 있습니까? 하나님의 창조의 지혜가 무궁하도다! 깊고도 깊도다! 오묘하시도다! 신비하시도다!

“창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니 그러므로 저희가 핑계치 못할지니라.” 존재의 증명이라는 것이 있습니다. 우리 교회에 오면 “하나님을 알 수 있는 길”에 관해서 공부합니다. 로마서1:20절은 누구나 다 객관적으로 이해할 수 있는, 주관적인 게 아니라 객관적인 인식입니다. 객관적으로 지어진 세계를 보라. 너희가 어떻게 이 세계의 지은 자가 없다고 부인할 수 있겠느뇨? (아.. 너무나 할 얘기가 많은데. 이 얘기를 다 하다 보면 로마서를 공부하지 못합니다. 또 1장도 다 못하고 내려갑니다.) Theism이란 게 있습니다. 자연신교라는 게 있는데, 하나님이 이 세계를 창조해 놓았다는데, 창조까지는 부인할 수 없고 핑계할 수 없다는 것입니다. 그렇지만 창조는 해놓고 이 세계에 간섭하지 않으신다는 것입니다. autonomy(자율성).그냥 돌아가게 둔다. 전혀 간섭하지 않고. 이런 이론에 대한 반발이 칼빈의 “섭리의 이론” (providence)입니다. 이것을 많은 곳에서 설명을 했습니다. 하나님은 창조했을 뿐 아니라 이 세계를 보전하시고 또 보전할 뿐 아니라 이 세계를 지탱케 한다는 것입니다. 다시 한번 읽겠습니다. “창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니 그러므로 저희가 핑계치 못할지니라.” 하나님이 없다고 핑계할 수 없다는 것이 바울의 믿지 않는 이방의 사람들에게 던진 가장 중요한 말입니다. 이렇게 작은 시계도, 작은 건물도 다 이것을 만든 이가 있는데, 하물며 이 큰 우주에 있어서랴. 여러분들. “거북이이론”을 알지요? 거북이가 바다에서 나와 가지고 이따만한 거북이가 해변에 와서 모래를 팝니다. 자기 두 앞발로 판다는 것입니다. 거기다가 거북이 알을 막 낳습니다. 그리고 흙으로 덮습니다. 그래서 바다로 갑니다. “미래에 내 아이들아 잘 있거라.” 하고 갑니다. 그럼 이것들이 따뜻한 해변의 모래속에서 깨어나면 거기서 나옵니다. 전부 다 나옵니다. 나오면 “아 새 세상이다!” 합니다. 그런데 이상한 게 있다고 합니다. 해변이 이렇게 있으면 해변에 나무가 있고 시원합니다. 그리고 이 쪽이 바다입니다. 그런데 한 마리도 산으로 기어가지 않습니다. 다 바다를 향해서 갑니다. 나오는 것마다 바다로 기어갑니다. Discovery 채널이 있잖아요. 신비하다는 것입니다. 어떻게 저렇게 한 마리도 숲으로 가지 않는가 말입니다. commenter(해설자)가 “저 새끼 거북이 안에다가 바다를 향할 수 있는 그런 지식을 넣어 준 자가 누구인가?”합니다. 우린 힘차게 대답할 수 있습니다. 창조주입니다. 하나님이십니다. 하나님께서 다 그것을 집어 넣어서, 하나하나의 씨도 보면 다 설계가 있습니다. 우리가 호흡을 할 때도 그렇습니다. 우리들은 탄산가스를 내보내고 산소를 마십니다. 그러나 나무는 거꾸로 합니다. 이런 조화의 기초를 누가 만드셨습니까? 파스칼의 “내기이론”이라는 게 있습니다. 우리 인생을 내기한다는 것입니다. “하나님이 계시다! 그러므로 우리가 선하게 살아야 한다.” 그런데 만일 하나님이 안 계시면? “안 계셔도 그가 선하게 살았으니 그가 좋은 것이 아닌가?” 그런데 만일 계시다면 하나님을 모르고 산 것은, 그런 인생은 큰 실패, 큰 낭패를 보게 되는 것이 아니냐? 이래도 좋고 저래도 좋은 것을 그것을 왜 믿지 않는가? 그렇습니다. 창조의 세계를 보면 우리가 하나님을 핑계할 수 없습니다. 개개인의 모든 것들이 전부 다 오묘한 질서가 있습니다. 말로 설명할 수 없는 지식이 그 안에 있습니다. 오늘의 시대는 어떻습니까? 동방박사가 성경을 보는 그 시대의 성서학자들보다도 그리스도의 오심을 더 먼저 알았습니다. 오늘 미국의 입장은 어떠합니까? 너무나 많은 과학자들 속에서 더욱 신앙이 깊은 사람, 진지한 사람들이 많습니다. 의사들이 하나님을 믿는 사람들이 많습니다. 왜 그럴까? 유독 많습니다. 의사들이 어떠냐면 창조물 중의 창조물, 피조물 중의 피조물인 인간의 구조를 연구하는 사람들입니다. 구조를 공부하다 보면 너무너무 조화롭다는 것입니다. 이 질서와 조화를 만들어 놓으신 하나님 마땅히 그 앞에 감사하고 경외, 두려움과 존경의 마음을 가지는 것이 당연한 것이 아닙니까? 그렇습니다. 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 어디있느뇨? 보이지 않는 하나님이 보이는 만물에 다 있습니다. 내가 가르치는 사람 중 하나가 미술학원 선생이 있었습니다. 아이들이 아침에 온다는 것입니다. 그림을 그리게 합니다. 가을에 코스모스를 그리게 합니다. 그럼 집에서 어떻게 살았는가라는 것을 다 알 수 있다고 합니다. 아 저 아이는 언니와 싸웠구나. 저 아이는 엄마한테 혼났다. 저 아이는 오늘 집에서 맛있는 것을 먹고 왔구나. 칭찬받았구나. 다 그림 안에 나타난다는 것입니다. 오늘의 세계를 봅시다. 창조는 무엇입니까? 내적인 것을 표현해 나온 것입니다. 오늘의 세계, 피조된 세계의 모든 것들을 볼 때,“하나님의 능력과 신성이 보이지 만물에 분명히 보여 알게 되나니.” 그러니 이것을 볼 때 하나님이 존재하지 않는다고 핑계할 수 없다는 것입니다. 여러분들 이 시계가 Cosmos입니다. 이것이 한 예입니다. 이것이 우연히 되었다고 생각하는 사람 아무도 없습니다. 이것과 비교할 수 없는 정교함과 구체적이고, 말할 수 없이 오묘한 이 세계가 말을 한다는 것입니다. 이것이 우연히 되어진 것인가? 이것을 핑계할 수 없다는 것입니다. 그런데 너희들은 어떠하뇨?

좀 전에 객관적인 세계를 말했습니다. 하나님의 계심을 논리적 추리로 압니다. 그러나 우리는 어떠나면, 주관적인 길이 있습니다. 이것은 무엇일까요? 직관(intuition)입니다. 제가 물에 빠진 사람을 건진 적이 있습니다. 그런데 정말 물에 빠진 사람이 살아나면, 인생이 굉장히 진지해집니다. 어떤 사람은 이런 사람이 있습니다. 물에 빠졌습니다. 장마가 졌는데 물에 빠져서 사람이 막 떠내려가는 것입니다. 그런데 어떠냐면 들어갔다 나왔다하는 것입니다. 그러면서 또 내려가는 것입니까? 왜 내려갔다가 올라갔다가 하냐면 숨쉴려고. 푹 가라앉았다가 올라와서 숨을 쉽니다. 그렇게 떠내려가면 죽는 것입니다. 그런데 이 사람이 누가 건져내서 이 사람이 나와서 무엇을 얘기하나면, 물에 빠졌는데 내려갔다가 올라갔다가 하면서, 이게 정말 중요한 것입니다. 살아야겠다는 것 밖에 생각이 없다고 합니다. 그런데 어떠냐면, 나왔을 때, 오 하나님! 전혀 하나님을 믿지 않았는데, 오 하나님! 저를 살려주신다면, 그런데 또 어떠냐면 들어갈 때 자신의 인생의 모든 것들이 필름처럼 다 보인다는 것입니다. 그런데 다 뭐만 보이냐면 잘못한 것만 다 보이는 것입니다. 다시 들어갔다 나와서 자기가 회개하는 것입니다. “아. 정말 잘못했습니다. 제가 죄인입니다. 저를 살려주신다면…” 그래서 자기가 그 안에서 자신의 삶의 모든 것을 다 경험하고 – 이는 매우 신비적인 체험입니다 – 다 회개하고 구원을 받았다는 것입니다. 초대 교부에 터툴리안이라는 사람이 있었습니다. 그 사람은 뭐라고 했냐면 “인간은 태어날 때부터 크리스챤이다.”라고 했습니다. 그런데 이 말이 매우 어려운 말이었습니다. 태어날 때부터 뭐가 크리스챤인가? 그 사람의 사상을 쭉 공부하면 그의 주장의 핵심은 무엇인가? 우리 인간의 영혼은 어떤 세상에나, 어떤 종교를 어떤 이론을 가졌던지 어떤 자리에 있던지 우리 인간의 영혼은 하나님을 향하고 있다는 겁니다. 시편의 기자는 “사슴이 시냇물을 찾기에 갈급함같이 내 영혼이 하나님을 찾기에 갈급하나이다.” 우리 영혼은 항상 해와 해바라기의 관계와 같다는 겁니다. 우리 영혼은 항상 뗄래야 뗄 수 없는 하나님과의 인간의 관계성. 아버지와 아들의 관계. 예수안에 있는 탁월한 비유. 하나님과 나. 이는 아버지와 아들의 관계. 아버지와 아들의 관계가 뭔가? 아버지라는 말 속에 아들이 있는 것이고, 아들이라는 말 속에 아버지가 있는 것이다. 아버지를 생각하지 않는 아들이라는 말이 의미가 없다. 아버지라는 말 속에는 이미 아버지를 부르고 있는 것이고 아버지를 요청하고 있는 것입니다. 우리 영혼은 이미 하나님을 향하고 있다는 것입니다. 바울은 무엇을 얘기하고자 하는 것입니까? 우리가 하나님을 거부하는 것은, 하나님을 외면하는 것은, 그것은 자기를 속이는 것이다. 영혼의 진정한 욕구, 이것을 외면하는 거다라는 겁니다. 어거스틴은 젊었을 때 정말 방탕하게 살았습니다. 그의 고백록이라는 책에 보면, “하나님은 이미 내 안에 와 계신데 내가 밖에서 하나님을 찾았나이다. 내가 하나님 안에 안식을 하기 전에는 내 영혼이 진정한 안식이 없나이다.” 하나님과 인간 사이가 그렇습니다. 이것은 진정한 영혼의 고백입니다. 하나님과 인간 사이는 뗄래야 뗄 수 없는 관계입니다. 그런데 자꾸 떼려고 한다는 것입니다. 그러므로 뭐가 생깁니까? 영혼의 불안이 생깁니다. 우리가 하나님을 잃어버릴 때 우리 가운데 찾아오는 것은 무엇입니까? 불안입니다. 하나님을 거부할 때 찾아오는 게 뭡니까? 고독입니다. 이것은 세상의 어떤 것으로 바꾸어 보려고, 채워보려고 해도 채워지지 않는 것입니다. 이 자리는 채워지지 않는 것입니다. 그러므로 인간은 태어날 때부터 크리스챤인 것입니다. 태어날 때부터 하나님을 부르고 있는 것입니다. 하나님을 향하고 있는 것입니다. 해바라기가 해를 향하고 있듯이 말입니다. 그렇습니다. 주관적으로 봐도 그렇고, 객관적인 피조세계를 봐도 그렇습니다. 우리는 뭔가에 가리워져 있습니다. 우리의 영혼이 태양에 구름이 낀 것과 같이 가리워져 있다. 우리의 영혼이 무언가엔 홀려 있다는 것입니다. ‘귀신에 홀리다’는 말이 있습니다. 우리가 정신을 차리고 보면, 산상수훈에 예수님이 이런 말씀을 하셨습니다. 정말 아름다운 말씀입니다. “마음이 정결하면 너희가 하나님을 볼 것이요.” 아. 이것은 굉장히 아름다운 말입니다. 너무나 아름다운 말입니다. 마음이 깨끗하면 너희가 하나님을 본다는 것입니다. 우리는 누구나 다 하나님을 볼 수 있는 능력을 가지고 있다는 것입니다. 그 영혼안에 하나님을 볼 수 있는 눈이 있습니다. 하나님을 향하고 있고, 하나님을 찾고 있다는 것입니다. 그러나 우리의 마음이 깨끗하지 못하고 가리워져 있고 홀려있기 때문에, 그러므로 우리가 하나님을 잊고 사는 것입니다. 그러나 잊으려고 해도 잊어질 수 없는 것입니다. 이것이 하나님과 인간간의 관계입니다. 끊을래야 끊을 수 없는 것이고 잊을래야 잊을 수 없는 것입니다. 이것이 하나님과 인간과의 관계가 아닙니까? 자, 그러나 21절에 바울은 말합니다. 그럼에도 불구하고

1:21 하나님을 알되 하나님으로 영화롭게도 아니하며 감사치도 아니하고 오히려 그 생각이 허망하여지며 미련한 마음이 어두워졌나니

“하나님을 알되” 알아요. 압니다. 우리 인간은 압니다. 범죄 심리학을 하는 사람들은 어떻게 범인을 잡냐면, 어디 살인을 했다. 도둑이 있다하면 어느 곳에 소변이나 대변을 봤나를 찾는다는 것입니다. 왜냐면 죄를 범할 때 누구나 어떤 도둑도 어떤 살인자도 다 두려움을 느끼고 그것이 옳지 않다는 것을 압니다. 옳지 않다는 것을 알고 그 죄를 범하고 있다는 것입니다. 한국에 내가 십대일때, 아주 유명한 살인범 하나가 있었습니다. 여러명을 죽이면서 도망을 갔습니다. 전국이 그 범인을 잡으려고 야단이었습니다. 그런데 그 범인이 잡혔습니다. 잡혔는데 첫마디가 무슨 말이었냐면, “휴~ 나는 살았다.” 이게 신문에 크게 났습니다. “살인자가 살았다니?” 그렇습니다. 이것이 인간입니다. 죄를 지어도 할수 없이 짓는 것이고 죄를 지어도 죄를 지면 안된다는 것을 알고서 죄를 짓는다는 것입니다. 그러므로 우리는 죄인이다. 그러므로 너희안에 이런 것을 부인할 수 있겠느냐? 양심의 거리낌이라는 것이 있다는 겁니다. 양심의 보호막이 있다는 겁니다. 그러므로 양심을 거스리고 살아가는 네가 아니뇨? 누구도 그것을 부인할 자가 있느뇨? 그러므로 바울은 이야기합니다. 그러므로 너희가 죄인이 아니냐? 너희 안에 죄가 있는 것이 아니냐? 하나님을 알되 하나님으로 영화롭게도 아니하며 감사치도 아니합니다. 우리는 마땅히 피조된 존재입니다. 시편에 이런 노래 있습니다. “여호와 우리 주여. 주의 이름이 온 땅에 어찌 그리 아름다운지요. 어찌 그리 아름다운지요.” 이게 시편입니다. 시편의 기자가 너무나 아름답다고 증거하는 것입니다. “주의 손가락으로 지으신 주의 하늘과, 주가 베풀어두신 달과 별, 내가 보오니 사람이 무엇이관대…” 우리가 무엇이관대 이 아름다운 세계를 주시고.. 우리 안에 뭐가 있습니까? 창조에 대한 하나님의 영광을 찬양하고 그것에 대한 감사가 있어야 했는데. 아담과 노아가 무엇이 다릅니까? 아담 안에 이것을 잃어버렸다는 것입니다. 노아에게 왜 방주를 지으라고 했습니까? 왜 노아를 피신시키지 않으시고 방주를 지으라고 하셨습니까? 노아가 방주를 지으면서 이 창조의 하나님의 수고로움과 오묘하심을 다시 찾으려고 한 것이 아닙니까? “하나님을 알되 하나님으로 영화롭게도 아니하며 감사치도 아니하고 오히려 그 생각이 허망하여지며 미련한 마음이 어두워졌나니” <시편14:1> ‘어리석은 자는 그 마음에 이르기를 하나님이 없다 하도다’했습니다. 하나님이 없다하는 사람은 미련한 것 입니다. 어두워졌다는 것입니다.

1:22 스스로 지혜 있다 하나 우둔하게 되어
1:23 썩어지지 아니하는 하나님의 영광을 썩어질 사람과 금수와 버러지 형상의 우상으로 바꾸었느니라.

그렇습니다. 하나님이 사라지고, 그 자리를 우상으로 바꾸게 되었다는 것입니다. 우주의 중심은 인간이죠. 인간의 중심이 하나님인데 이것을 잃어버림으로 말미암아, 인간이 이것을 부인함으로 말미암아, 이것을 거부하고 반역함으로 말미암아, 진실로 우둔하게 되었고 미련하게 되어서 마음이 어두워져 있게 되었다는 것입니다. 하나님 대신에 우상을 섬기게 되었다는 것입니다. 그러므로 어떤 현상이 나타나게 되었습니까?
1:24 그러므로 하나님께서 저희를 마음의 정욕대로 더러움에 내어버려 두사 저희 몸을 서로 욕되게 하셨으니
하나님을 잃어버린 사람들, 바울은 ‘버려두었다’는 것입니다. 그가 그리 하니 어찌하겠느뇨? 여러분들 이 세계를 깊이 알 필요가 있습니다. 지금 바울이 이야기하는 진노가 처음 로마서 읽는 사람에게는 굉장히 거부감이 있습니다. 누가 그럽니다. 왜 처음에 만나자마자 화부터 냅니까? 하나님 왜 화부터 내고 그러시지요? 내가 어릴 때 이것을 읽을 때 하나님 왜 화부터 내시지요? 라고 생각했습니다. 그런데 신앙을 알고 깊어지고 보니, 사랑이 클수록 그것을 거부하면… 정말 간절한 사랑이 있었다는 것입니다. 이 진노는 인간의 반역의 결과입니다. 하나님의 간절한 사랑, 말할 수 없는 우리에게 베푸신 은혜가 있습니다. 알고 보면 창조의 모든 것들 우리 안에 있는 모든 것들, 우리가 호흡하는 것도 다 은혜입니다. 그런데 여러분 어떻습니까? 꼭 아프고 나면, 결핍을 경험하고 나면, 공기가 오염이 되고 물이 더러워지면 그 때 알게 된다는 것입니다. ‘아, 이게 감사한 것이구나! 사랑이 우리에게 주신 은혜이구나! 우리에게 주신 사랑이구나!’ 그런데 왜 처음부터 화를 내십니까? 처음부터 진노라니뇨? 그런데 바울의 이 말을 대신 썼습니다. 바울이 뜨거운 사람입니다. 뒤에 보면 대신 쓴 대필가가 있습니다. 일어나서 막 말했습니다. 가만히 앉아서 생각해서 쓴 게 아닙니다. “이 죽일 놈들!” 바울안에 뭐가 있나? 이 놀라운 하나님의 사랑을 안 자들안에, “이것을 너희가 거부하다니. 이 벌받아도 싼 놈들아.” 대필하는 자가 막 쓰는 것입니다. 그리고 뒤에 나오잖아요. “네 이름도 하나 누가 썼다는 것을 써 넣으라.” 그러다가 그냥 책상위에 올라가서 “이 못된 놈들아” 1장은 한마디로 Darkness(어둠)입니다. 인간이 얼마나 부패했나. 인간이 얼마나 죄인인가를 보여주는 것입니다. 진노! “뭐? 화?” “내가 화를 낸다고?” 왜 진노부터 이야기합니까? “뭐? 진노라고?” 바울이 이렇게 말합니다. “뭐? 진노라고?” 그렇더라는 것입니다. 알고 보니까. 십계명에 이런 게 있습니다. “나는 질투하는 하나님이다.” 뭐 성경의 하나님이 질투를 한다고? 이 신은 좀 이상한 신 아니야? 그게 알고 보면 너무 멋있는 신이라는 것입니다. “사랑의 신”이라는 것입니다. 여러분 누구를 정말 사랑하는 사람이 있다고 해 봅시다. 한국 노래 중에 이런 노래가 있습니다. “질투”라는 노래 있습니다. 여러분 잘 알거에요. 질투라는 노래 있지요? 한번 불러보세요라고 하니 다 부르더라구요. “나만 쳐다 봐. 왜 다른 사람을 쳐다 보는 거야.” 질투하시는 하나님이시라는 것이 마땅한 것이 아닙니까? 우리를 사랑하신다는 게 아닙니까? 사랑의 하나님이 있다는 것이, 우리를 사랑하시고 우리에게 은혜를 베푸시고 이 세계를 지으시고. 이것이 우리에게 위로가 되고 이것이 우리에게 힘이 되는 게 아닙니까? 바울은 얘기합니다. 그러나 그들이 하나님을 거부하고 하나님을 떠나서 스스로 어리석어짐으로 사랑하면 사랑할수록 더 멀리 떠난다는 것입니다. 어찌하겠습니까? 하나님께서 어찌하시겠습니까? 내버려 두신다는 것입니다. 아… 하나님의 버림이라는 것. “내버려 두시다니!” 이것은 긴 사연이 있다는 것입니다. 사랑하면 사랑할수록 더 멀어져 가는 것입니다. 이것이 죄인의 모습이라는 것을 바울은 지금 고발하고 있는 것입니다. 그러므로 하나님께서 저희를 어떻게 하시겠느냐? “저희를 마음의 정욕대로 더러움에 내어버려두사” 하나님을 잃어버린 자는 정욕에 이끌려서 정욕의 노예가 됩니다. 유다1:6 또 자기 지위를 지키지 아니하고 자기 처소를 떠난 천사들을 큰 날의 심판까지 영원한 결박으로 흑암에 가두셨으며 1:7 소돔과 고모라와 그 이웃 도시들도 저희와 같은 모양으로 간음을 행하며 다른 색을 따라 가다가 영원한 불의 형벌을 받음으로 거울이 되었느니라. 저희가 누구입니까? 인간의 중심에 하나님이 사라질 때, 극심한 무질서, 상대주의, 그 어떤 것도 진리에 대한 확신이 없고, 심판의 두려움을 모르는 자들, 심판의 두려움이 다 사라졌습니다. 공의의 모든 것들을 다 잃어버렸습니다. 모든 것이 옳고 그름이라는 것의 판단의 기준을 모두 상실해버린 모습이라는 것입니다. 그 중심의 하나님의 자리를 우상으로 바꾼다는 것입니다. 그러므로 말미암아 극심한 혼돈이 생기고 그들이 정욕에 빠져서 부패해가는 것입니다. 그것을 그리하도록 내버려 둘 수 밖에 없는 것입니다.

1:25 이는 저희가 하나님의 진리를 거짓 것으로 바꾸어 피조물을 조물주보다 더 경배하고 섬김이라 주는 곧 영원히 찬송할 이시로다 아멘
1:26 이를 인하여 하나님께서 저희를 부끄러운 욕심에 내어버려 두셨으니 곧 저희 여인들도 순리대로 쓸 것을 바꾸어 역리로 쓰며
1:27 이와 같이 남자들도 순리대로 여인 쓰기를 버리고 서로 향하여 음욕이 불일듯 하매 남자가 남자로 더불어 부끄러운 일을 행하여 저희의 그릇됨에 상당한 보응을 그 자신에 받았느니라.

오늘의 미국을 보십시오. 오늘의 미국 같은 로마에 있는 사람들을 향한 바울의 말과 하나도 다르지 않습니다. 저들이 하나님을 버릴 때, 말할 수 없는 성적인 타락과 이 무질서와 이런 부패와. 지금 바울은 동성의 연애를 말하고 있습니다. 이 지경까지 간 것에 관하여 이것을 빠뜨리지 않고 지적해놓고 있습니다. 로마가 그러했습니다. 너무너무 많은 사생아들이 있었습니다. 아침에 일어나면 로마에는 많은 노예들이 있었습니다. 너무나 많은 사생아들이 아침에 나왔습니다. 누가 부모인지 모르는 이들, 이런 버려진 아이들이 너무나 아침만 되면 많이 나왔습니다. 여기 저기 길거리에서. 너무나 많은 동성연애자들이 생겨나게 되었습니다. 그 가운데 복음이 들어갔습니다. 전할 때에 “내가 복음을 부끄러워하지 아니하노니.” 제국의 엄청난 세계를 바라보고 저들은 때론 절망했을 것이고 때론 자기가 살아가는 길이 홀로 가는 길이란 고독감을 느낄 수도 있었을 것입니다. 그러나 바울은 이야기합니다. “내가 복음을 부끄러워하지 아니하노니 복음은 모든 이에게 구원을 주시는 하나님의 능력이라.” 로마를 향한 바울의 한마디 핵심적인 말은 무엇입니까? 구원을 받아야 한다는 것입니다. 바울은 계몽을 얘기하지 않았습니다. 바울은 구원을 얘기했습니다. 저들이 구원을 받아야 한다는 것입니다. 저들이 구원이 필요하다는 것입니다. 저들이 철저하게 부패됐다는 것입니다.

1:28 또한 저희가 마음에 하나님 두기를 싫어하매 하나님께서 저희를 그 상실한 마음대로 내어 버려 두사 합당치 못한 일을 하게 하셨으니
1:29 곧 모든 불의, 추악, 탐욕, 악의가 가득한 자요 시기, 살인, 분쟁, 사기, 악독이 가득한 자요 수군수군하는 자요
1:30 비방하는 자요 하나님의 미워하시는 자요 능욕하는 자요 교만한 자요 자랑하는 자요 악을 도모하는 자요 부모를 거역하는 자요
1:31 우매한 자요 배약(背約)하는 자요 무정한 자요 무자비한 자라.
1:32 저희가 이같은 일을 행하는 자는 사형에 해당하다고 하나님의 정하심을 알고도 자기들만 행할 뿐 아니라 또한 그 일을 행하는 자를 옳다 하느니라.

< 기 도 >
은혜로우신 아버지. 오늘 우리 안에 있는 죄. 이것이 하나님을 잃어버린 결과인것을 사도의 고발을 통해서 우리가 알게 되었습니다. 오늘 이 시간 진실로 하나님의 진노아래에 있는 죄인의 모습, 이것이 우리의 모습인 것을. 하나님의 진노, 하나님의 이 진노. 이 한마디를 잊지 않고 사는 우리들이 되게 하소서. 오 아버지 하나님. 죄악의 세계속에서 사는 죄인의 모습. 이 모습이 우리의 모습이니이다. 이 죄의 모습. 그러함으로 하나님의 진노 아래에 있는 모습. 이 사도의 이 고발을 우리가 다시 한번 겸허한 마음으로 이 말씀을 듣는 귀를 허락해 주시고, 진실로 어두워진 마음, 어리석은 마음, 하나님을 마음에 두기 싫어하는 마음, 이런 죄인의 모습, 이 어두움 이것이 오늘의 이 시대의 모습임을 우리가 알고 진실로 이 시대가 구원을 갈망하는 시대임을 우리가 알고 가는 자들이 되기를 원합니다. 진실로 말씀이 우리 가운데 생명이 되길 원하고 말씀이 우리 가운데 이 어둠의 세계를 밝히는 빛이 되기를 원합니다. 예수 그리스도의 이름으로 기도하였습니다. 아멘.